20年以上、海外の僻地医療に携わるーー医師の原点は
グローバルに語ろう アジア医師と見る未来 その37
日本最大級の医療専門サイト であるm3.comのメンバーズメディア編集部様のご厚意で、ここに転載させていただけることになりました。将来海外で働くことを目指す医療者や、海外進出を考えているビジネスマン、そして医療系を目指す学生さんの参考になれば嬉しいです(マニアックすぎて需要がないか(´・ω・`)??)。
前回に引き続き、筆者がまだ東京厚生年金病院(現 東京新宿メディカルセンター)の研修医のころからお世話になっている、呼吸器内科医の溝尾朗先生にお話をいただきました。
今回のテーマは「海外における僻地医療」です。
溝尾先生は日本に帰国してからもタイのチェンマイで僻地医療に取り組まれています。
田舎に医師がいない…
目の当たりにした格差
中島 前回、溝尾先生は海外での診療がかなりお好きだという話がありました。現在も日本で勤務医として働く傍ら、タイのチェンマイで僻地医療に取り組まれていますよね。私もお手伝いさせていただいているんですが、こちらを始めた経緯について伺えますか?
溝尾 シンガポールにいる時に、ちょうどメディカルツーリズムが始まったというのもあって、あちこち旅行しながらいろいろな医療機関を訪ねて医療事情を調査したんです。タイやマレーシアにも行きましたが、都会はすごく発展していて医療レベルも高い一方で、田舎へ行くと全く医師がいないこともあり、格差を感じました。この格差を解消しない限りその国は発展しないと思い、日本に戻ってからも関わりたいと思ったんですよね。
それで、帰国した翌年に10人ほどの医師と一緒に「日本旅行医学会」を立ち上げて理事として活動し、さらにAMEFA(Asian Medicare Exchange Foundation Association:一般財団法人アジア医療介護交流協会)という財団法人を作って僻地での医療活動を行うようになりました。
中島 医療事情を調査したということですが、政府やどこかの企業から依頼されて行ったわけじゃないんですよね?
溝尾 違いますね。事前に約束もアポもとらずに、診療所のドアをトントンってノックするという感じで(笑)。
中島 溝尾先生がシンガポールにいた2000年頃って、インターネットがあったとはいえ、まだ日本では2ちゃんねるぐらいしか盛り上がっているサイトがない時代だったじゃないですか。メールもそこまで浸透している感じでもなかったですし。その状況で海外にいる医師が、英語ネイティブでもないのにすごいですよ、その行動力が(笑)。
溝尾 そこはなんとなく医療だと話が通じるんですよ(笑)。ドクター同士だとね。向こうも大目に見てくれますし。
中島 それはあるかもしれないですね。
溝尾 ありますね。ほとんどの人は、突然やって来た私に対してもウエルカムという感じで受け入れてくれて、いろいろ話をしてくれました。
中島 私が溝尾先生に声をかけていただいたのは、私がホーチミンにいた2016年か2017年ごろでしたね。
溝尾 最初は日本旅行医学会で活動をしようと思っていたのですが、そこでは海外に行く日本人を守るための医療を展開することを目指していて、私がやりたい「現地の医療格差をなくす」ことと違ったんですね。AMEFAを作って活動し始めたものの、医師一人だとなかなかうまくいかないことが多くて、それで手伝ってくれそうな中島先生に声をかけたんです。
中島 ホーチミンとチェンマイって近いですしね。溝尾先生からは「チェンマイ来る?」みたいなすごく軽い感じでご連絡いただきましたよね。あんまり細かい説明をされずに「何月何日に来てね」みたいに。先輩に呼び出されたから行きますって感覚でしたよ(笑)。
溝尾 たぶん、その方が中島先生は来てくれると思ったんでしょうね(笑)。
中島 でも溝尾先生、ひどいんですよ! チェンマイには夜中に到着したんですが、空港まで迎えに来てくれるって話だったのに姿は見えないし、SIMカードを買って携帯で連絡してもつながらないし…。仕方ないから自分でタクシーをひろってホテルまで行ったら、溝尾先生が部屋で飲んでいたのには驚きましたよ(苦笑)。
溝尾 いやいや、申し訳ありません(笑)。
僻地で1日100人を診る!
海外ならではのもどかしさも…
中島 チェンマイではどのように僻地医療を展開されたんですか?
溝尾 最初はバンコクでやっていたんです。だけどバンコクは政府も病院も大きすぎて、私がやりたい「医療格差の解消」がうまくできなかった。日本人の医療なんか必要ないって思っている人たちも多かったですしね。
それでチェンマイに移ったら、支援を求められていることが分かったんです。活動を続けるうちにこちらから何を提供したらいいかもわかってきたので、今はチェンマイでの支援が中心ですね。
具体的な活動内容としては、健康診断と医療相談です。現地にあるチェンマイ病院と一緒に活動するようにしています。単独で活動しても、人を集めるのも大変ですし、そのあとつなげることもできませんからね。われわれの活動日時を、病院経由で現地の保健師さんに伝え、住民に広報してもらっています。
当日は、まず健康診断をして、血糖やマラリアの感染有無などチェックします。無治療の糖尿病がみつかって病院につなぐこともしばしばあります。診るのは1日100人ぐらいかな。以前、中島先生は泌尿器科の疾患を見つけていましたよね?
中島 水腎症でした。確かその時は、私の副業でアドバイザーとして関わっているクローバープラス社でタブレットエコーを扱っていて、このときのような環境でも有用なのか試してみようと持参していたんです。エコーで疾患がみつかり、実績にもなりましたし役に立ってよかったですよ。
![写真](https://static.m3.com/mmedia/2022/221021_mirai_2.jpg)
溝尾 医療相談で圧倒的に多いのは腰痛ですね。重いものを持つことや農作業をすることが多いからでしょうね。でも腰痛でさえ、診てもらったり相談したりできるところはありません。
中島 我々もタイの医師免許は持っていないので、診療できないのがいつももどかしいです…。あくまで医療相談だけですから。
溝尾 タイの医師免許はいつかとりたいと思っています。今の活動は、チェンマイの厚生労働省に話は通しているので特に問題ないんですが、免許がない状態で政府の許可を得るのも本来はなかなか難しいみたいですね。
大変なことでいうと、現地の病院と一緒に活動するのも、人脈がないとできないことかな。
中島 そこが溝尾先生のすごいところだと思いますよ。どうやったらそんな人脈を引っ張ってこれるんですか?
溝尾 実は日本で新しく友達になった人がタイで旅行会社の社長をされていて、タイに知り合いがたくさんいたんですよ。これはいいなと思い、彼に現地の方を紹介していただいたりして人脈をどんどん広げさせてもらいました。
中島 そんな人脈の広げ方が! さすが溝尾先生です。
「貧乏だった」自分が
医師になれたから――
中島 日本でも仕事がある中で、僻地医療の活動にここまで注力するってなかなかできることじゃないと思うんですよ。何か原動力にされているものがあるんでしょうか?
溝尾 私の育ちからの話になりますが、うちはものすごい貧乏だったんですよ。子どもの頃、母親に連れられて質屋に行った覚えもあります。そんな私が国立大学の医学部を卒業して医師になれたんですね。
これは、日本の素晴らしい環境やサポートがあったということと、親が私の教育にお金をかけてくれたからだと思うんですが、今の東南アジアの地方、僻地を見るとそういうことがほとんどできてなさそうに見えました。それが私の心にひっかかったんです。
誰かがそこのスイッチを入れてあげないとよくならないと思って、宿命…というには大げさかもしれませんが、自分にその役割があるような気がして活動しています。
だから医療だけじゃなく、医療プラス「教育」をやりたいんです。私の経験上、医療と教育がしっかりしていれば、良い人材が出てくると思っています。
最終的にはそういう形で支援したい。だから将来的にタイの医師免許をとったら、現地に診療所を作ったり病院を作ったりして、その収入を僻地の医療と教育に分配したいという夢はありますね。
中島 それ、もしかして私もすでに計画のメンバーに入っていませんか?
溝尾 もちろん入っていますよ(笑)。
中島 覚悟は一応しておきますけど、2年くらい前に言ってもらっていいですか?(苦笑)
溝尾 わかりました、その時が来たら「ちょっと来て」って声掛けますね(笑)。
まとめや次回予告
今回は、溝尾先生が海外で僻地医療を始められた経緯や活動の進め方についてご紹介すると共に、その背景にある原体験について語っていただきました。
次回で溝尾先生との対談も最終回。日本と海外の僻地医療の違いや僻地医療の経験をどのように臨床現場やキャリアにおいて活かすことができるか、その可能性について考えていきます。